我が国の古代史では、四世紀の中国の史書に『倭国』関連の記述がないため、古墳時代前期を【空白の四世紀】と呼ぶことを記しました。反対に『旧唐書(くどうしょ)』倭国日本伝、『新唐書(しんとうしょ)』日本伝という、七世紀中葉から後半に『倭国⇒倭国+日本国⇒日本国』と、国が分裂した後に統合した記録をのせた史書を、歴史に組み込まない不思議な現象を取り上げましょう。
『旧唐書』倭国日本伝は、『日本書紀』に載らない大化4(648)年に唐を訪れた使節団を記して、次のように国号の起源を語った様子を載せています。
- ① 「日本国は倭国の別種なり。その国、日辺(にっぺん)にあるをもって、ゆえに日本(にっぽん)をもって名となす」と。
- ② あるいはいふ、「倭国みずから、その名雅(みやび)ならざるをにくみ、あらためて
日本と号す」と。 - ③ あるいはいふ、「日本はもと小国、倭国の地をあわせたり」と。
『旧唐書』は、この説明を述べたのち、「その国から入朝する者は、多くは尊大な態度をとって真剣に答えない。したがって、中国はこれを疑う」と感想を加えています。一般に、三種類の意見を一つの使節団が説明したと採るためと、『日本書紀』に関連記事が載っていないので、この記述は信頼性に欠けると考えられています。
しかし③の「日本はもと小国、倭国の地をあわせたり」説は、この史実を648年の使節団が知る由もなく、672年の壬申の乱を経て、690年の中央集権国家『日本』誕生後の使節団…大宝2(702)年の粟田眞人(あはたのまひと)らの遣唐使:『旧唐書』と『續日本紀』が掲載…の説明を記録に残した、と捉える説があります。
この説を重視すると、①の説明は648年の使節団の見解、②は孝徳紀にのる652年か653年の遣唐使の説明を記録したと採れます。こう考えると、①は『倭国』の使者が新しくできた『日本国』を評した説明、②は日本国…孝徳・斎明・天智政権…の遣唐使の説明を載せた記述と推理できます。ここでの問題は、ヤマト政権が646年正月「大化改新の召」において、『日本国』を名乗った史実があるかです。
つまり七世紀中葉に、列島が『日本国』と『倭国』に二分していたかですが、『三国史記』の新羅(しらぎ)本紀、文武王10(670)年12月に『倭国が国号を日本に改めた。日の出る処に近いことから命名した』記述があります。近江政権の天智天皇…「大化改新」時は中大兄皇子…が、668年に高句麗を滅ぼして誕生した『統一新羅』への国書に、①の説明と同じ内容を記したことは、『日本国』と『倭国』が併存したのは史実と考えて間違いないでしょう。
646年元旦の「大化改新」から663年の「白村江の戦い」を含み、672年の「壬申の乱」まで、孝徳・斎明・天智・弘文天皇の政権が『日本国』を名乗っていたなら、『日本国』と『倭国』の領域が、どのように分かれていたかを検討する必要があります。
この辺は『日本書紀』に載っていませんが、律令時代の資料として重要な平安時代中期に藤原時平・忠平が編纂した『延喜式 巻26 主税上』にのる国別「租税:稲束数」を、同時期に編纂した『和名抄』にのる国毎の郷数で割ると、興味ぶかいデータが得られます。
一郷あたりの租税が少ない国と、多い国の順位
国 名 | 区分 | 租(稲束数) | 郷 数 | 租税/郷 |
河 内 | 畿 内 | 401,000 | 80 | 5,000 |
山 城 | 畿 内 | 424,100 | 78 | 5,400 |
攝 津 | 畿 内 | 480,000 | 78 | 6,200 |
大 和 | 畿 内 | 554,600 | 89 | 6,200 |
美 濃 | 東 山 | 880,000 | 131 | 6,700 |
三 河 | 東 海 | 477,000 | 70 | 6,800 |
尾 張 | 東 海 | 472,000 | 69 | 6,800 |
淡 路 | 南 海 | 126,800 | 17 | 7,500 |
筑 前 | 西 海 | 790,100 | 102 | 7,700 |
佐 渡 | 北 陸 | 171,500 | 22 | 7,800 |
国 名 | 区分 | 租(稲束数) | 郷 数 | 租税/郷 |
越 後 | 北 陸 | 833,500 | 34 | 24,500 |
加 賀 | 北 陸 | 686,000 | 30 | 22,900 |
越 中 | 北 陸 | 840,400 | 42 | 20,000 |
甲 斐 | 東 海 | 584,800 | 31 | 18,900 |
備 前 | 山 陽 | 956,600 | 51 | 18,800 |
越 前 | 北 陸 | 1,028,000 | 55 | 18,700 |
豊 後 | 西 海 | 743,800 | 42 | 17,700 |
肥 後 | 西 海 | 1,579,100 | 99 | 16,000 |
肥 前 | 西 海 | 692,600 | 44 | 15,700 |
出 羽 | 東 山 | 973,400 | 65 | 14,500 |
延喜の時代(901~922年)とは、菅原道眞を太宰府へ左遷した後、道眞の改革案を右大臣藤原時平が実施した『延喜の治』と呼ばれる、摂関政治を中断し、醍醐天皇の親政を行った律令制を復活した時代でした。しかし平安時代中期に、稲束数を郷数で割った一郷あたりの国毎の租税に、こんな大差があったことには驚きました。
702年に公布した『大宝律令』には、20歳から60歳までの正丁に二段の口分田を与え、これに対する租税は段あたり「2束2杷」と定めました。一人あたりの租税を「4束4杷」と規定したのですが、慶雲3(706)年に減税し、「3束」に変更したと言います。この3束は稲作生産量の「3%」とされていますが、これを改めた記録はないようです。
昭和2年に発表された『奈良朝時代民政経済の数的研究』〈澤田吾一〉は、様々な歴史書の詳細な分析から、一郷の人数を「1,400人」と推定し、『和名抄』にのる四千余郷の郷数から、平安時代中期の人口を「560~600万人」と算定しています。律令時代の一郷は50戸で構成され、澤田氏の詳細な分析により、1戸が25~30人で成り立っていたことが解明されていますので、「一郷の人数:28×50=1,400人」を使うことが基本になっています。
そこで、702年に一人あたり「4.4束」とした租税は。一郷あたりに直すと、4.4束×1,400=6,160束となり、『延喜式』『和名抄』からの計算では、『大宝律令』公布時の値が、「攝津・大和」国の租に近似する様子が判ります。ただし『延喜式』『和名抄』は、西暦930年頃の集計ですので、702年公布の『大宝律令』と200年以上の差があり、現代の租税を基にして、江戸時代末の税金システム分析をすることになるため、この比較は意味を成しません。
ところが、全国一律に運用されたはずの租税が、最も低い畿内の「河内国」と、最も高い北陸道の「越後国」では約五倍の差が現われます。これは何を表わしているのでしょうか? 国別でなく、畿内七道の租税に区分すると、ある史実が浮かびあがります。
地方毎の一郷あたりの租税(平安時代中期)
道区分 | 稲束数(束) | 国 | 郷数 | 一郷の租税 |
畿 内 | 2,087,200 | 5 | 349 | 6,000 |
東山道 | 7,405,400 | 8 | 729 | 10,200 |
南海道 | 3,327,300 | 6 | 322 | 10,300 |
東海道 | 10,438,500 | 14 | 996 | 10,500 |
山陰道 | 4,357,700 | 7 | 375 | 11,600 |
山陽道 | 5,862,600 | 8 | 498 | 11,800 |
西海道 | 5,990,500 | 9 | 484 | 12,400 |
北陸道 | 4,186,400 | 7 | 230 | 18,200 |
合 計 | 43,655,600 | 64 | 3,983 | 10,960 |
㊟ 志摩国・隠岐国・對馬島・壱岐島を除く(郷数46。全国の郷総数:4,029郷)
この表で上記の二国・二島を除いたのは、生産性が低いために、畿内七道の一郷あたりの租税を比較対照するうえでは、除外した方が良いからです。 この集計で重税を課された北陸道は、前の表でも「越後、加賀、越中、越前」国が上位にランクされ、ここにのる「備前、豊後、肥後、肥前」国に共通しますが、前後を付けた国は「越、吉備、豊、肥」国を飛鳥時代後期、690年に分割して生まれたものです。
この史実は、『日本書紀』持統天皇4(690)年9月23日に「筑紫國上陽咩(かむつやめ)郡」の兵士、大伴部博麻の記述にのる上八女郡(後の上妻郡)が、同一人を解説した690年10月22日に「筑後國上陽咩郡]へ変った記述と、『伊勢皇大神宮』最初の式年遷宮を690年10月1日に持統天皇…和風諡号:高天原廣野(たかまがはらのひろの)姫…が挙行なされた史実から、この日が、全国に律令制度を実施した新『日本国』が誕生したときと考えられます。
北陸道の「越」が『日本書紀』にのる最後が、持統天皇 3(689)年7月23日の記述で、越前が最初に登場するのは、持統天皇 6(692)年 9月21日です。山陽道の吉備を「備前・備中・備後」、西海道の筑紫・豊・肥を二分したのも690年10月1日と推理できます。これらの諸国が二分・三分されたのは、国域が大きすぎたためで、山陰道の国には強制分割された国はありません。ただ「山陰・山陽・北陸・西海」道に共通するのが、祭神に『大国主命。建御名方神(諏訪神社の祭神)』をはじめ、出雲系の神々を祀る神社が多いことです。
「国譲り神話」で、大国主命が葦原の中つ国を譲った相手は、高天原の天照大神ですから、倭国が日本国へ吸収された史実を、天武・持統天皇、藤原不比等が神話に組み込んだのではないでしょうか。この辺は、第九章『日本の建国 西日本編』山陰道に詳述します。
諸外国では国名の起源、そして国の成立過程が重視されますが、この国では『日本』の名を誰が、どのように、いつ付けたかは話題にもなりません。しかし国号の起源を解くことは日本人の義務ですので、第九章の最後に検証します。
答えは誰もが知っている天皇…当時は皇太子…が、誰もが知っている東国の「日の出」を見られる有名観光地の名が上がります。
ただ、この解釈を導き出すには、律令時代の日本地理を掌握しておく必要があります。
そこで、現在も証明されていない『国名、郡名は小地名を採用』した仮説を定理へ昇格させるために、律令時代に存在した66国2島と591郡全数の起源地名を推定して、地方ごとの分布図を作りました。この模様を詳述したのが第八章と第九章です。