山手線の駅

 我が国の首都、東京の中心部を環状に走る山手線の駅には、江戸・明治時代からの地名伝説があります。これを列記しましょう。

 大昔から代々つたわるモミの木があったので「代々木」、原っぱにできた宿場の「原宿」、江戸時代の五不動尊の名を採った「目黒、目白」、五反を単位にした田んぼの区画を伝えたという「五反田」、むかし田んぼだったところが町になって「田町」、新しい橋の「新橋」、織田信長の弟、有楽斎長益が屋敷を構えたので「有楽町」、神社が所有する田の「神田」、谷中の寺で鶯が鳴いていたので「鶯谷」、仔馬を込めて育てていたという「駒込」、鴨の巣があったので「巣鴨」、などなど、半世紀前の小学生の頃に聞いた言い伝えが、いまだに変らないのは不思議です。
 田んぼが町になったのが田町なら、町田は「町が田に変ったところ」なのだろうか? との疑問をつのらせました。さまざまな言い伝えの共通点は、ただひとつ、地名に当てた「漢字の意味」と関係を持つことです。
 『はじめに言葉ありき』、と「旧約聖書」に載るように、我が国の『言葉、地名』も漢字が導入される前に、文字が使われていなかった様子は「魏志倭人伝」に記録されています。ここに「対馬国、一大(壱岐)国,伊都国」などが載せられて、弥生時代に地名があった史実を伝えています。さらに、地形表現に『掛け言葉』を使った可能性が高いことを重視すると、地名に当てた文字を外して、語源を考える発想が浮かびます。

田町付近地図

 明治42年12月16日に山手線の駅として生まれた「田町駅」付近の古地図をみると、「田んぼがあったところが町になった」俗説が成り立たないことが判ります。
 右図は「明治・大正 東京散歩」(人文社)に載る、明治40年の「東京市芝區三田村、田町」付近の地図です。左上の「慶應義塾大学部」がある真中の地域が「三田」村、海岸に並行する道路が「東海道」、街道の両側、細長い区画が「田町」です。
 海の中を走るのは東海道本線で、地図が作られた二年後に開業する山手線「田町駅」の建設中の姿を記録した貴重な地図といえます。世界で初めて、海の中を走る鉄道が生まれた理由は「品川駅」に記しますが、稲作適地の三田(御田、美田)ならともかく、海に面した街道沿いの細長い砂地に、「田んぼ」を作る人がいるかは、常識で判断できます。
 全国に分布する「田町」は、大半が川沿いの細長い地域につけられた不思議な地名です。「たまち」をどのように解すると、その意味が出るかを「田町駅」で考えましょう。

東京駅周辺地下基盤地形図

 右の図は、東京駅周辺の地下基盤地形図です。江戸時代初頭に埋めた日比谷入江をはさむ左が淀橋台の皇居(江戸)、右は日本橋台地(江戸前島)の基盤地形を表わしています。赤は等高線、白紫色の部分が入り海で、東京駅の左にのる四角い区画は、埋め立てた丸ノ内を表現しています。中上の四区画が「永楽町」、今は二重橋前の中央六区画が「八重洲町」、下の六区画が「有楽町」を表わして、東京駅を出た線路が西へ曲がり切ったところに「有楽町駅」があります。

 地名が地形を表現した様子を頭に置いて、基盤地形図を見ると、「八重洲」は文字どおり海辺の「洲」につけた様子が判ります。ところが現代に伝わる地名の由来は、リーフデ号で豊後臼杵に漂着したヤン・ヨーステン(1556~1623年。冶容子、八重洲)が徳川家康に重用されて八重洲河岸に居を構えたため、八重洲とついたと伝えられます。「ヤン・ヨーステン→ヤヨス→ヤヘス」の音型変化は日本語の定形に反していますし、このクラスの外人の名が、江戸城内、丸ノ内の町名に採用されること自体がおかしい、と考える必要があります。この話は、明治時代初期の『東京府志料』が初出、という処が重要です。
 地下基盤地形図を眺めていると、八重洲を挟んで、昭和4年まで麹町區(今の千代田区)に属した永楽町を対にした「有楽町」の伝承にも疑問が湧きます。日比谷入江を埋める前の有楽町は、「江戸前の魚」を水揚げした漁港として知られていました。江戸へ来た可能性がうすい織田有楽斎の話も『東京府志料』が初出ですし、我が国の地名は、人名を起源にした例が皆無に近いので、「新橋、有楽町、東京」駅で、語源を検討いたします。

 先にあげた山手線の駅への伝承も同様に考えて良いようで、地名が「一地点の地形を表現した」固有名詞だった定義が忘れ去られた後の時代の、作り話だったようにみえます。
 地名が地形表現を主体に命名した様子は、平成22年4月1日の全国(北海道と沖縄県を除く)1.507市町村に使われた漢字を集計すると、トップテンに「川、田、大、山、野、南、島、津、東、原」の順に、地形を表現する文字と方位がならぶ事実に示されています。
 ここを基本に置いて、おなじ地名が全国にどのように分布し、どんな地形に当てられていたかを様々な地図と対照して『山手線、京浜東北線』の各駅を検討します。なお、以下の各章はPDFを使っていますので、Adobe Readerをダウンロードしておいてください。


第一章 『山手線の駅』 PDFダウンロード
 山手線には所在地名を名乗らなかった駅があり、良く知られるのが品川区上大崎にある「目黒駅」です。目黒は、目黒不動尊(目黒区下目黒)に発した名でなく、目黒川の狭窄部につけた地名だった史実が、上目黒氷川神社(目黒区大橋)にある武蔵國荏原郡菅苅荘目黒郷の石碑に残されています。この辺も「目黒の地名解釈」から導き出せますが、なぜ、上目黒→下目黒→上大崎に「目黒」が移動したかは、本文で解説します。
 いまは通勤・通学路線になった山手線も、明治時代は貨物輸送を中心に運行されました。山手貨物線は、東海道⇔東北・常磐・高崎・上信越・中央・総武線をむすぶ大動脈として機能してきました。しかし昭和42年を境に、自動車を中心におく貨物輸送の大転換に伴い、貨物施設をすべて失った山手線が、どのように変化したかを記します。

第二章 『京浜東北線の駅』 PDFダウンロード
 第一章は、地名解釈を中心に置いて、山手線の歴史を副主題にしました。根岸線をふくむ京浜東北線では、地名解釈を主題にするのは変わりませんが、「蒲田、大井」が平安時代中期の『和名抄』『延喜式』に記載されていますので、沿線の旧郡名だった武蔵國「久良、橘樹、荏原、豊島、足立」郡に加えて、「都筑、多摩、埼玉」郡にあった郷の比定作業を行ないます。ここから分布図を作ると、東京の郷は、多摩川流域と武蔵野台地東端にかたよる様子が浮上します。この地域が国の中心になる要素を備えたのは、徳川家康江戸入城後、台地上の道路網と上下水道の整備、低湿地の埋め立てと河川の付け替え、運河網を整えた江戸時代からだったことが解ります。
 さらに沿線には、最初にふれた川口のほかに、埼玉県庁がある「浦和」という海岸地名があり、付近が海に面していた時代…縄文海進の時代:約9,000~4,000年前…に名づけた可能性が高い地名が沢山あるので、これを検討します。