縄文の言霊

 私達は、生物学の分類で『新人:ホモサピエンス・サピエンス=クロマニオン人』に属します。約15万年前に東アフリカで誕生した新人は、最初から『会話能力』を備えていたと考えられています。新人がアフリカを出て、イスラエルをふくむアラビア半島を経由してヨーロッパ・アジアに分かれ、日本列島に住み始めたのは3~4万年前に想定されています。当時は10万年前に始まったヴュルム氷期(旧石器時代)でした。
 やがて約1万6千年前から気温が徐々に高くなる後氷期へ移り、気温上昇に伴う植生の変化、食用動物の増加に加えて、弓矢の発明、釣り具の改良、食糧の広範な利用をはかる煮沸土器の創作など、様々な道具を開発して定住生活を始めたのが『縄文時代』でした。

 右図は、週刊朝日百科『日本の歴史 39 稲と金属器』(1987 朝日新聞社)にのった「戦争のはじまり 佐原 真」に掲載された図を転写したものです。
図に示されたように、一万年以上も狩猟採集を続けて、王国を造ることもなく、戦争もなかった我が国の『縄文時代』は、世界史上、きわめて特異な時代と考えられています。
 かつては、この状況を文化が遅れた地域と捉えていましたが、今は「人類学、考古学、歴史学」などの進展により解釈が一変して、我が国の地勢と気象条件が『農耕文化』を採り入れる必要がないほど恵まれていた、と考えることが定説になっています。

 約2,500年前の弥生時代に始めた『水田稲作』も、陸稲(おかぼ)のプラントオパール(種子に含まれるガラス質成分)や籾殻(もみがら)が縄文時代前期~中期の遺跡から多数出土していますので、陸稲の直播(じかま)き栽培は行なっていたようです。ただ、人手を要する水田稲作は、大気温が下がって自然状態では暮らし難くなった、弥生時代に導入されたようにみえます。さまざまな分析の結果、縄文時代中期(約5,500~4,500年前;三内丸山の時代)における個人の栄養状態は、江戸時代の平均より上位に位置づける説も出されています。

 青森市三内字丸山の遺跡を見学なされた方なら御存知のように、六本柱の建物、一般の住居、倉庫群、祭礼地、墓地を計画的に配置した巨大集落遺跡には、冬季に作業場・集会施設に使ったと考えられている長さ32m、幅10mの大型住居跡があります。
 大型住居は縄文時代中期の三内丸山遺跡だけでなく、東北地方の日本海側から北陸地方に百例近くの遺構が残っています。縄文時代前期(約7,000~5,500年前)の杉沢台遺跡(秋田県能代市)、一ノ坂遺跡(前期:山形県米沢市)、中期(約5,500~4,500年前)の沖ノ原遺跡(新潟県中魚沼郡津南町)、不動堂遺跡(中期:富山県下新川郡朝日町)が例にあがります。大型住居は西日本にないのが特徴で、縄文時代の『吹雪の冬』の暮らし方を彷彿させてくれます。

 氷河時代、ヴュルム氷期の旧石器時代は、日本海の水温が低く、海水の蒸発量が少なかったため、今は世界有数の豪雪地帯として知られる東北・北陸にも雪が少なく、後氷期の縄文時代前期~現代ほど、『四季』に顕著な差がなかったようです。
 この状況を劇的に変化させたのが、後氷期における大気温上昇でした。約8,000年前、太平洋岸を流れる『黒潮』の分流が、東シナ海を北上して日本海へ流れ込む『対馬暖流』を誕生させたのです。暖流の日本海への流入が列島に大雪を降らせる『冬』を生みだし、温帯で世界一と謳われる落葉広葉樹林帯…世界遺産の白神山地(青森県中津軽郡西目屋村・西津軽郡深浦町、秋田県山本郡鉢峰町・藤里町)が典型…を形成し、『春夏秋冬』それぞれの季節(八百萬神:やほよろずの神)から四季の恵みを授かる、日本文化の原泉を醸成しました。

 この冬場の豪雪が、三内丸山をはじめ縄文時代前期~中期の集落に、作業場・集会施設の『大型住居』を誕生させたのです。先に触れたように、縄文の人々が会話能力を備えていたのは確実ですので、冬の三内丸山の作業場「大型住居」で、北海道産…紋別郡遠軽町白滝…の黒曜石、岩手県久慈市産のメノウ、新潟県糸魚川市産のヒスイ、「赤、黒」の漆で二色に塗り分けた木製品や、縄文のポシェットと呼ばれる編み籠を出土したように、衣服や円筒型土器をはじめ、様々な生活用品を造りだす作業をしていた姿が目に浮かびます。ここでは、活発な会話が交わされていたことでしょう。
 第五章『地名考古学』、第六章『日本語の源流』で詳しく検証しますが、いま私たちが使っている基本語「赤(aa).青(ao).白(io).黒(uo)」「朝(aa).昼(iu).夕(uu).夜(ou)」「春(au).夏(au).秋(ai).冬(uu)」は、韻律を整えた二音節の単語で構成されています。この全数が『地名』に使われていますので、地名の命名年代を分析すると、縄文時代前期に名付けられていた可能性が高い姿が浮上します。

 つまり、三内丸山に暮らしていた人々は「赤青白黒」「朝昼夕夜」「春夏秋冬」を使って会話をしていたと考えられるわけです。語源を推理すると、色名の「赤青白黒」は地形表現と同じ手法、「朝昼夕夜」が一日の太陽の運行(∿型)、「春夏秋冬」も植物の生育状況(∿型)を基本に据えたようです。後に他国から入った人間中心・物質主義の考え方とは、違った思考法が浮上します。これが不変の真理を言葉に込めた『言霊』の実例です。
 縄文時代が、世界に類を見ない一万年以上つづいた史実も、恵まれた気候・地勢条件に
育まれた人的資質に起因しました。この思考法は、江戸時代まで継承されたのです。

磯城島の 大和の國は 言霊の 助くる國ぞ ま幸くありこそ

『万葉集』 巻十三 3254 柿本人麻呂

iiiao aaoouia ooaao auuuuio aaiuaioo.

 万葉和歌などを、アルファベットの母音だけで記すと、『縄文語⇒弥生語⇒倭語⇒日本語』特有の韻率が浮上します。日本語は【a. i】母音を中心に据えて、【o. u. e】母音は、この順番に使用比率が下がります。これは『山、坂、沢、谷、滝、川、池、海、崎、鼻、島』という基本地名を「aa:山、坂、沢、川、鼻」「ai:谷、滝、崎」「ia:島」「ie:池」「ui:海」と定めて、韻を踏むように『地名』を付けています。
 先にあげた和歌の「大和:aao」の歌枕「磯城島:iiia」は、「磯城島の大和国は:iiiaoaaoouia」と見事な韻を踏んだうえに、「言霊の:ooaao」を誘導します。二つの地名と普通名詞を、『の、は、の』という膠着語…「てにをは」…で結びつける簡潔な手法は、縄文の人々が創作した語法に見えます。
 地名を集計して縄文、弥生時代の名称を区分すると、音数の増加だけでなく、微妙な韻律の変化が浮上します。縄文時代と弥生時代の地名には、語頭に使った「a. i. o. u. e」母音の使用比率が変化した様子が残されているのです。

 次表は、第六章『日本語の源流』にのせる、「語頭母音の変化」を表わした集計です。第五章の『地名考古学』で詳しく分析しますが、「嶋地名、埼地名」は縄文時代につけた内陸部の字名地名、「島」「崎+岬」は縄文~弥生時代につけた、いま海の中、海に面する自然地名、「鼻」は弥生時代後期から古墳時代前期に新設した、埼・岬と同じ地形につけた、自然地名と推理しました。

字名地名と自然地名の語頭母音の使用比率(%)

嶋地名 埼地名 崎+岬
43.0 44.1 37.2 38.8 37.3
22.7 22.1 16.7 20.6 21.3
13.0 11.4 15.8 13.0 13.2
3.3 3.5 7.8 6.8 7.2
17.9 19.0 22.4 20.8 20.9
地名総数 2,648 2,361 2,860 1,901 1,055
平均音数 3.97 4.00 4.58 4.98 5.60
推定年代 縄文 縄文 縄文,弥生 縄文,弥生 弥生

 統計学では、同一種のサンプルを1,000例以上集めて分析すると、集合の特性が浮上することが知られます。表に現れたように、縄文時代の地名は嶋地名、埼地名のデータに見られる『a母音:44%、i母音:22%、o母音:18%、u母音:12%、e母音:4%』くらいの比率を基準に置いて良さそうです。この辺は第六章『日本語の源流』で詳しく検証しますが、縄文語が弥生語へ変化したとき、音数の増加のみならず、語頭母音の使用比率、とくに『e』母音の使用比率が増加した様子がみられます。この原因は難しいので、第六章で探索します。


第一章 『山手線の歴史』 PDFダウンロード
 山手線30駅に採られた地名の命名年代を分類すると、『縄文:16。弥生:6。江戸:3。
明治:3。昭和:1。平成:1』と推定できます。新駅の高輪ゲートウェイでは、海進時の海食崖、淀橋台の入江上面にあてた高輪は縄文前期~中期の『地名』と考えられますが、『日本語の韻律』に大きく外れた英語などが入る名は、「記号」に区分するのが本サイトの流儀ですので、命名を平成としました。

第二章 『京浜東北線の歴史』 PDFダウンロード
 山手線に並走する「品川~田端」間の15駅を除く、京浜東北・根岸線の32駅を区分すると、『縄文:15。弥生:5。古墳:1。奈良:1。平安:1。鎌倉:1。江戸:1。昭和:6。平成:1』と推理できます。全国に共通する現象ですが、地名・駅名の付け方が昭和時代後期、バブル期から激変した姿が京浜東北・根岸線の駅に残されていますので、本文で詳しく検証します。

第三章 『古代の東京、神奈川』 PDFダウンロード
 前半は『和名抄』にのる武蔵国南部の7郡50郷と相模国7郡49郷の位置を復元して、平安時代の「東京、神奈川」の地理を推理します。次の鎌倉時代の中心になる神奈川と、律令時代に人口が少なかった東京では、郷の分布に大差が出現することと、相模国府を置いた相模川下流域が律令時代に新田開発を行った史実が興味を惹きます。後半は我が国の市町村名と字名に、なぜ縄文時代の『地名』が多く継承されたかの理由を考えます。